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<メモ>ロボットたちの墓標

<メモ>ロボットたちの墓標

アニメや漫画の世界において、自己犠牲とロボットは、様式美と言えるくらいの王道の展開だ。

地球を救うために、あるいは主人公の少年のために、自らを省みずに身を挺して隕石を止めにいったり、ラスボスに突っ込んだりするストーリーは多々ある。

古くは『鉄腕アトム』、『ジャイアントロボ』あたりだろう。

自分の世代で言えば、『ドラえもん』だろうか。『海底鬼岩城』『ロボット兵団』『雲の王国』などの大長編に、その傾向が強い。

そんなロボットがアメリカに行けば『ターミネーター』や『アイアン・ジャイアント』『ウォーリー』あたりになるのだろうが、基本『宇宙空母ギャラクティカ』的な、ロボットの反乱がメインテーマになるのはロボットに対する思想の違いがあってそれはそれで面白い。資本主義対共産主義とか。

ロボットが権力者のメタファーとなったり、ジュブナイルSFの典型で良くあるロボット(コンピュータ)が人間を命令する未来(これもある種のメタファー)を表現していたりする。それが日本に来ると『火の鳥(未来編)』の電子頭脳(懐かしい響き!)である「ハレルヤ」になる訳だ。

閑話休題。


カミカゼ特攻的な思想(美意識)を「ロボット」という「人間」ではないものに転換したこと。

それは、ガンダム(モビルスーツ)が未成熟な少年が父親を超えるための武装(身体性の誇張・拡張)であることとはまた異なる、「ロボット」という概念の複雑なアップグレードであったように思える。

つまり、前述のガンダムが身体性の拡張ならば、自己犠牲ロボットは精神性の拡張と言える。それは陳腐な言い方になるが、機械の体に精神が宿るか、ものに「こころ」を見いだせるか、ということだろう。入れ替え不可能なはずの「精神」と「肉体」は、設定・想像の上では、悠に飛び越え入れ替わっていくことが可能なのだ。ロボットという器に、「こころ」「精神」が宿り、キャラクター化していく。

我々は機械萌え、とは別の次元でロボットに感情移入する。それは、ロボットは人の姿を模した泥人形だとしても、その背後に人間を感じずにはいられないからだ。そしてロボット自体がもつ矛盾、入れ子構造の「死」、擬似的な「死」は、その答えの無さから多くのロボットたちを死に追いやってきた。

そしてふと、ロボットたちの「こころ」はどこに行ったんだろう、とおもう。(そしてそれはもともと無いのかもしれない。)ロボットに乗せた自分たちの思い、こころ、魂はどこに行ったんだろう、とおもう。

ロボット自体が棺桶のような、墓標のようなものなのだとしても、ロボットたちのための、靖国神社があってもいいかもしれない。魂の器のための墓標のようなものが。

# by takuji0808 | 2012-05-27 12:09 | つぶやき | Trackback | Comments(0)

『マッピー』用ボーダー

「日常の冒険」-日本の若手作家たち-



「日常の冒険」-日本の若手作家たち-

公共空間における美術の冒険、日常のありふれたもので非日常を創出

現在の日本のアートシーンでは多くの若手作家たちに共通するテーマとして「日常/非日常」があげられます。身近な日用品から美しい光景を創出したり、日常のありふれたものを組み合わせることで美術作品へと昇華するなど、何気ない日常にこそ喜びや美やリアリティがひそんでいるのではないかと作品が静かに訴えかけてくるようです。
おなじように地下鉄の駅と駅をむすぶ公共の通路に存在する「500m美術館」もまた、日常のなかに非日常的なギャラリー空間が現れ、行き交う人々の創造力を強く喚起しています。
錬金術師のごとく日常と非日常をつなぐ、日本の若手作家たちによる「日常の冒険」展は、絵画、彫刻、インスタレーション、映像、写真など各分野で、札幌・日本のアートシーンをになう作家たちの瑞々しい感性を紹介するとともに、日常と非日常のちょうど狭間に位置する500m美術館と共鳴することで様々な感覚を呼びおこしてくれることでしょう。

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出品作家
石倉美萌菜、今村育子、今村遼佑、狩野哲郎、進藤冬華、鈴木悠哉、
清治拓真、田中功起、西田卓司、藤倉翼、山本聖子

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会期:2012年5月12日(土)~7月27日(金)
時間:7:00~22:30(照明点灯時間)
会期中無休
無料でご覧になれます。
※最終日は19時まで

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「日常の冒険展」関連企画  

ギャラリーツアー

日常の冒険展に出品している作家が自作の前で作品解説を行います。
3名の道外作家(今村遼佑、狩野哲郎、山本聖子)につきましては、作家本人から直接、
作品解説を聞くまたとない機会ですので、皆様是非お越しください。
16時に地下鉄バスセンター前駅側 (11番の清治拓真作品前)からスタートし、
トータル1時間30分程度を予定しています。

日時:2012年5月12日(土) 16:00~17:30(予定)
会場:500m美術館 各作品前
観覧:無料

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展覧会について

「日常」というヴェールを一枚めくってみたら、そこにはどんな光景が広がっているでしょう。自由な夢想?それとも空虚な現実?しかしそれもまた「日常」の別の姿なのです。何層にも重なったこの「日常」の厚みの中に私たちは生きています。さあその間(あわい)をめぐる冒険に出かけましょう。道案内をしてくれるのは、絵画、彫刻、インスタレーション、映像、写真などさまざまな分野で札幌と日本と、そして世界のアートシーンの将来を担う若手作家たちです。地下コンコースという日常の中にギャラリーという新しい日常を作り出した500m美術館ならではの企画展。どんな発見があるか、ワクワク・ドキドキです。

500m美術館企画委員会委員長 北村清彦

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いやあ、なんでしょうね。このメンバーに自分がいることに不安しかないですが、ベストを超えるしかないでしょう。いつだってプレッシャーを抱えて、淡々とやることが理想だなあ。

# by takuji0808 | 2012-05-04 23:23 | 告知 | Trackback | Comments(0)

『マッピー』用ボーダー

やま、的なモノのもつ想像力

やま、的なモノのもつ想像力の考察

ランダムに見えるが、何か法則のもとに集まり、うずたかくなる。

身体性、あるいは日常、機能、人間が集まり、塊となる。
またはモダニズムや工業、資本主義、消費社会の死体(抜け殻・ゴミ)が積み重なったものである。

ある種の仮説性と、凹凸の関係性がありながら、独立していく。

長い目で見れば、すべてがランドアート的であり、空間を変異させる力を持っている。

結果的に、畏怖の対象として増殖と風化の両義性を抱えていく。

「やま」が人間社会や集合知、コミュニティ、人生のメタファーならば、それをみるということは、自分自身(やその周り)を客観視することであり、それに絶望し、未来を積み重ねることに希望を持つということでもある。

(2012/04/28 追記)


# by takuji0808 | 2012-04-27 23:48 | つぶやき | Trackback | Comments(0)

『マッピー』用ボーダー

「絵画の場合ー最終章ー」感想<B>

さて、続きです。

<ギャラリーB (3階)>

●小林麻美
メタ鑑賞構造絵画。絵の中の物語がループしている合わせ鏡のような印象。

個人個人の小さな物語を語るだけではなく、それをどのようなレイヤーで、構造で、もっと言えば「構図」と「空間作り」で見せるかに、今展示で最も意識が強い作家かもしれない。複雑な入れ子構造を、膜1枚通すことであえて単純にして(芯を通して)絵画にしているのは、実は結構すごい発明だとおもう。

絵の構造が強調されているのは、樽前artyや乙姫の展示よりすっきりしているからだろう。変な展示をしたがる(絵の外の構造にも気持ちが引きづられてしまう)のは小林さんの性癖みたいなものだったのかもしれない。

例えるなら、生春巻き。

●西田卓司
*省略 誰か書いてください

●末次弘明
問題意識としてはかなりシンプルで、アプローチは笠見さんと似ている。メンバーのなかでは、ちょうど中堅の世代。

展示中に、作品の高さで絵の印象が全く変わっていたのが記憶に残っている。形態や色彩、思考などさまざまな要素がプレーンな絵だとおもう。形や色彩、モチーフなどがどこから来たのか読みづらいのもそう感じる一因なのかも。そういう意味では、展示中、一番自由さを持った絵画だったのかもしれない。自分の立ち位置を読むことや、制作と距離感、作品のドライな感じは共感できる部分が多いが、同時に読む解けない部分もあってそれは微妙なジェネレーションギャップなのか、地域差なのかはよくわからない。

例えるなら、ポタージュスープ。

●大井敏恭
一番年代が離れている大井さんと自分の絵が似ているのが面白かった。構造やレイヤーに頼らずに強い絵画を描けているのが改めて凄いと思う。

若手は世代的な共感ではなく、カリフォルニアの地域的な感覚に共感している可能性もあるのかもしれない。(グローカルの輸入時間差ってあるかもしれないな。)

郊外的な感覚(中央に対するコンプレックス・疎外感・時代に対する焦燥感)っていうのは別に固有のものではなく、むしろ主流であり、モダンなものだとしたら、大井さんの作品はその問題(ローカルな絵画こそ実は主流であること)を真っ向から引き受けている作品だろう。

例えるなら、郊外一軒屋レストランのランチプレート。

●林亨
正直にいうと、林さんの作品が一番感想を書きにくい。とっかかりが少ないように思えるし、とっかかりがありすぎて何から言えばいいのかとも言える。(もちろんそれは善し悪しではないです、自分のセンサーに引っかからないだけかもしれないし。)そこに末次さんのプレーンさとも似ているのだけど、また違う林さんのスタンスが見え隠れしている気がする。

レイヤー構造にも見えるし、具象画にも見えるし、森林はドライにもウェットにも見えるし…というようなことの考えが行ったり来たりしてしまうのだ。

例えるなら、温野菜サラダ

●谷口明志
空間に対する線、支持体に対する線というシンプルなコンセプトの作品。このシンプルさは、下手に環境やら構造やら絵画史を考えてしまうことに対して有無を言わさない強みがある。

リキテンシュタインの筆跡絵画や、アンディ・ゴルズワージーとの比較で、より面白くなる作品だとも思う。

例えるなら、もりそば。

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全体を通しての感想は、内部からだと展示や運営のことなど含め、客観的に論じれない部分が多いのでしません。とりあえず、おしまーい。

# by takuji0808 | 2012-04-18 16:55 | 展覧会感想 | Trackback | Comments(0)

『マッピー』用ボーダー

「絵画の場合ー最終章ー」感想<A>

「絵画の場合ー最終章ー」感想
(2012年3月14日~2012年4月1日 )

個人個人の作品の感想・批評を書いているブログが一つも見当たらないという悲しい現実に愚痴っていても仕方が無いので、もう自分でやるしかないでしょう、こんちくしょうめ。
(というか自分より笠見さんとか山本さんのほうが思想オタク・絵画オタクだからよりレベルの高い感想が書けるとおもうのだけど…グチグチ…)

*鑑賞した順番です (敬称略)

<ギャラリーA (1階)>

●笠見康大
メンバーのなかで一番身体的な作品なのかな、というのが第1印象だったが、いまはちょっと違い、一番「感情的な」作品だと思っている。それは情動と情念と感情の間を身体を介して絵画にしているように感じるからだ。(*情動とは,身体的なものにまで影響を及ぼすような強い感受的状態のことである。これに対して情念とは,情動がさらに強まって永続化し,われわれの生の自然の流れがせきとめられて苦悩にさらされている状態である。そしてさらに感情とは,統御され自覚された情念のことである。)ざっくり言えば感情論の可視化だろうか。

しかしほぼ毎日描くことで手癖や方法がパターン化していくような状況や、紙のサイズや筆の大きさ、絵の具の種類によってベストな方向に向かってしまう本能的な部分をポジティブに受け止めて、いっこいっこ片付けているようだ。そういう画家の体内時計(世間とは違うスピードで流れる制作過程)をみると、等身大の人生の切り開き方(それができるかどうかはさておき)を見ているようで勇気づけられもするし、これでいいのかなと不安になったりもする。

ストロークやグラデーションの面に、紙をこすったような、かすれた表現が混じっていったキネティックな感じのドローイングが新鮮だった。

例えるなら、混ぜご飯おにぎりとちらし寿司。

●澁谷俊彦
近作で行っているのは、反射光と場との関わり方と言い切れるだろう。となると、変な場所であればあるほど作品はその場所に合わせ、あるいは状況が想像を超えていく多弁さを持つ可能性がある。だから春香山やモエレ沼のような過酷な、それこそ人の来ないような場所での仮説的な、記録のみでの展示を見てみたいとも思う。

デザイナーとして、もっとはっきり言えばウインドウディスプレーヤーのような感覚で、ニーズに応える割り切りがあっても良い気がする。というのも、今回の展示の場所は、澁谷さんの作品はランドマークの役割が大きかったと思うのだが、その役割を果たしているとは言いがたいからだ。しかしアーティストとしては、風や雪など色んな要素を取り入れている貪欲さが前に出ている時期なのかもしれないので、今後作品を絞り込んでいかなくては行けない時期にどのように変容するのかが楽しみとも言える。

例えるなら、公園で食べる幕の内弁当。

●山本雄基
今展示で、狡い方法で(笑)作った最大サイズの作品と最小サイズの作品。皆が言っている「今後の展開が楽しみ」が結構この作品を言い当てている気がする。もうこのサイズでこの作品を発表してしまっては、丸以外の幾何学形態(直線)のみを用いた、従来のようなサイズの作品を見てみたいというのが、鑑賞した人の要望になってしまうのではないだろうか。丸シリーズ、三角シリーズ、四角シリーズ…みたいな

しかしこのサイズでしか新しい方法を提示できなかったというのは、逆に面白く感じる。もっと、コントロールできる適度な大きさで作ることも可能だったはずなのに、「大きさ・数」という過剰さを選択したという嗅覚は今の時代的なものなのかもしれないし単なるこの展覧会だけの意地なのかもしれない。しかし落ち着いた色彩や手仕事感を無くしている感覚は、それとは相反している。つまり山本さんの子供の頃の記憶やモダニズム・絵画史(80年代的なもの)と、リアルタイムにある感覚・山本さんの身体性(00年代〜10年代的なもの)の、そういう両義性をどういうバランスで提示するかが作品の肝となる気がする。

例えるなら、和風クリスピーピザ。

●武田浩志
アーティストトークでは「ポートレートシリーズの解体過程」を展示した、と言っていた気がするが、展示はそれに尽きるだろう。

近作の印象としては、ノイズの作り方・使い方の上手さが目を引いた。時間的な問題(短い製作期間)を逆手に取って、ズレや剥がれ、泡、傷のような本来良しとされないテクスチャーを積極的に作品に取り入れているので、技術的な部分での制球力、防御率の高さはダルビッシュ並みなことを再認識した。

同時に、そういうライブ感、野獣的な部分は在学中の作品との共通点もあるようで、前述の「ポートレートの解体」という意味合いとリンクして興味深い過程だとおもう。

例えるなら、デパ地下スイーツセット。

<続く>

# by takuji0808 | 2012-04-18 16:38 | 展覧会感想 | Trackback | Comments(0)

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