お久しぶりですが、生きていますし元気です。
もう始まっていますが唐突に出品している展示に関しての宣伝、感想です。
備忘録のようなもので、言葉も乱雑で、申し訳ありません。
ただし、展示自体は非常に面白いし見応えもあるので、是非ご高覧いただければとおもいます。
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500m美術館vol.27「絵画の現在地」
会期 : 2018年7月14日(土)〜2018年10月3日(水)
■開催概要
会期|2018年7月14日(土)~2018年10月3日(水)
時間|7:30~22:00
会場|札幌大通地下ギャラリー500m美術館
住所|札幌市中央区大通西1丁目〜大通東2丁目
(地下鉄大通駅と地下鉄東西線バスセンター前駅間の地下コンコース内)
企画担当|高橋喜代史(美術家/一般社団法人PROJECTA)
企画協力|鈴木悠哉(美術家)、山本雄基(画家)
協力|児玉画廊、さっぽろ天神山アートスタジオ、寝床AIR、東山 アーティスツ・プレイスメント・サービス(HAPS)
主催|札幌市
500m 美術館では初となる絵画の展覧会「絵画の現在地」を開催します。 色彩や明度、形や造形、空間、構図、物質性、筆跡や痕跡、テーマなど絵画が持つ魅力や見所は多々ありますが、 インターネットや映像ストリーミングにおいて画像や映像などのイメージが溢れる現代社会のなかで、 絵画を描き続ける画家たちの思考や想い、根源的な表現欲求にふれることができないかと考えました。 本展は絵画でしか成立しない複雑な平面空間を思考し、多彩な画面構築に取り組む画家たちの作品を一堂に展示することで、 絵画が持っているダイナミズムや美しさ、奥深さや幅広さをより一層身近に感じられる展覧会となります。
■出品作家
荻野僚介
笠見康大
佐藤克久
小林麻美
武田浩志
中田有美
西田卓司
野原万里絵
久野志乃
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以下感想です。
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◆荻野僚介
平坦に消去された筆触や色面の強さが特徴だが、じっと作品のエッジを観察していると、シンプルでミニマムなだけではないことに気付く。それらの要素だけで絵画を成立させることがいかに難しいのかが分かってくる。
結晶形態という現象を思い出す。鉱物の原子配列が外形に表れているものであり、その形は同定の手がかりになる。永い時間の中で純粋化したときに、内存する本質が外形に表出していく。
結果として現れ、結晶化された作品が美しさを持ち得ているのは、その過程だけではなく根底の作者の思いが結実しているからだ。そのピュアで愚直な作品に対する姿勢を感じた瞬間に、画家はある種の救いを得るだろう。
◆笠見康大
近い作家として(よりドロドロしている違いはあるけれど)ミロとか杉戸洋さんを思い出した。作品として良いのは分かるがロマンチックだったりポエティックな表現にピンとこない部分があって、それは自分の個人的な嗜好だろうと思う。
多分、ほかの人も同じようにわかりにくい要素があるとしたら、そのあたりのセンチメンタルな日記か私信のような要素が、作品の中で大切な要素としてあって、そしてその感情的な個人的な部分は他者から読み解きにくい、共感しづらいものだからだろう。それが必要かどうかは別だが。
近作で、マスキングしたような色面を画面の中で大きく対比させているのは、地と図の関係とか、遠近法とか、絵の中に近いものと遠いものが一緒にあることでその遠近感が錯綜することをやっているのだと思う。以前の、画面の中に点をボカしている仕事も、そう考えると共通するものを感じる。
◆佐藤克久
アーティストは作品を作る上で、自分のルールを持っていると思う。
厳守すべきものもあれば、改訂していくものもある。そのルール自体を組み替えることもある。それは方法論や作風と言い換えてもいい。
何を描くか、どのように描くかではなく、何を選ぶか、選ばないか。
絵を描くということも人生のなかでひとつの選択肢であり、すべて選択の連続だ。
そのなかで、自分たちが持っているルールの穴をバグのように軽やかに貫通していく。
絵画とは狭い世界のなかでのある種のゲーム(仕組み)のようなもので、どこか揶揄している雰囲気を感じるのは、穿った見方だろうか。
◆小林麻美
作者や絵画という枠組みのなかにいる登場人物たち、絵画を見ているわれわれ鑑賞者など、絵画という視覚メディアに関係する登場人物の視点が何かを透過したり、入れ替わり、反射され、交錯していく。
第四の壁という演劇用語がある。舞台上に実在する左右と奥側の壁に対して、観客側の“4つ目の壁”を指している。実在しない壁の向こう側(舞台上)は劇が演じられる「虚構の世界」で、観客側は私たちが生活する世界と地続きな「現実の世界」だ。そこから「虚構と現実を隔てる壁」という意味を持っている
映画や演劇では「観客に向かって語りかける」行為によってその壁を破るのがポピュラーなのだが、小林作品において「絵画という虚構」を通して『今あなたが見ているのは、私(作家)が見た世界なのか?現実の絵画なのか?そもそもあなたは普段何を見ているのか?』と問いかけてくる。
作品は見るという行為がどれだけ豊かであり、我々が普段見ているようで何も見ていないのかを揺さぶってくる。(メタフィクションはフィクションの中に上位の立場にある現実を引き込むことで、虚構であることをより強調させる力を持っている)
第四の壁を破るということは、「これはうそですよ」という意味の一種のユーモアであり皮肉だ。
◆武田浩志
ポートレートシリーズに関して。
絵画空間を作家の「擬似的な遊び場」として想定する。ゲームマスターである作家のポートレートがアバターだとするとその二次的な身体は抜け殻であり、本人はログオフしている状態である。そうなるとイメージとしては、ゲームの攻略本にあるようなキャラクターや装備、アイテムの一覧表のように見えてくる。
特に今回のように並べてプリントアウトして表示されることで作家の収集欲や、魔改造していくマッドな気質が強調されているようで面白い。
ほかの絵画作品との共通性を見出すとしたら、(レイヤー構造であること、透明層があることはもちろんだが)iPadで描かれた線が2次的な身体あるいは身体の痕跡となることだろう。
タブレットやPCの操作、デザインの仕事、作品制作、絵を描くという行為が作家の中では等価で、横断して影響しあっていて、そういう意味では素直と言えるかもしれない。
◆中田有美
映像史や絵画史がテクノロジーの歴史や社会の変化と密接な関係は周知の事実である。
中田有美のブリコラージュされたデジタルイメージは、プリントアウトされた壁面と等身大の絵画作品が同時に展示されている。その比較によって虚実の関係性や身体の距離感、現代の消費社会、解像度や物質性、デジタル社会での皮膚感覚が浮き彫りになる。
◆西田卓司
自分で自分を評価、批評できない。
とりあえず今回考えていたことを書くと…
自分はコラージュ作家ではないか、ということだ。
既成のもの、身近にあるものを寄せ集めて、形にするということを素直に出した感じがあります。
あとは、DIY感というか、チープな感じになるのは強みでもあり弱みでもあるので、その面白さをどう出していけばいいのかってことを考えていた気がします。
展示されていて、自分が画家っぽくなれないコンプレックスみたいなものも何となく感じて、そういう中途半端さも上手く作品に落とし込めたらいいなと思います。
◆野原万里絵
身体(=絵を描くという行為)の反復と拡張。
その残像と痕跡が空間を覆い尽くしていく。
現代のネット社会や情報過多、VR技術によって融解する身体と世界のボーダーをシンプルな所作でなぞり続けている印象。
出来上がった境界線は展示することで壁のように立ちあがるが、そこに見えてくるのは、世界を区切る抑圧され規制されたものではなく、われわれを解き放ってくれる大きな窓のような、開放された世界だ。
◆久野志乃
どこかに続いているような風景、誰かの記憶のなかの、どこかにある風景。
現実的でありながら、あいまいで、架空な物語はむしろ普遍性を帯びていく。
近作の安定した構図が、よりその傾向を高めている印象がある。
一見絵本のような世界観にも見えるが、どちらかというとSF短編小説が近いもかもしれない。