日々の制作と生活を、思いつくままに描く。札幌在住、美術家。西田卓司のブログ。


by takuji0808

<メモ>ロボットたちの墓標

<メモ>ロボットたちの墓標

アニメや漫画の世界において、自己犠牲とロボットは、様式美と言えるくらいの王道の展開だ。

地球を救うために、あるいは主人公の少年のために、自らを省みずに身を挺して隕石を止めにいったり、ラスボスに突っ込んだりするストーリーは多々ある。

古くは『鉄腕アトム』、『ジャイアントロボ』あたりだろう。

自分の世代で言えば、『ドラえもん』だろうか。『海底鬼岩城』『ロボット兵団』『雲の王国』などの大長編に、その傾向が強い。

そんなロボットがアメリカに行けば『ターミネーター』や『アイアン・ジャイアント』『ウォーリー』あたりになるのだろうが、基本『宇宙空母ギャラクティカ』的な、ロボットの反乱がメインテーマになるのはロボットに対する思想の違いがあってそれはそれで面白い。資本主義対共産主義とか。

ロボットが権力者のメタファーとなったり、ジュブナイルSFの典型で良くあるロボット(コンピュータ)が人間を命令する未来(これもある種のメタファー)を表現していたりする。それが日本に来ると『火の鳥(未来編)』の電子頭脳(懐かしい響き!)である「ハレルヤ」になる訳だ。

閑話休題。


カミカゼ特攻的な思想(美意識)を「ロボット」という「人間」ではないものに転換したこと。

それは、ガンダム(モビルスーツ)が未成熟な少年が父親を超えるための武装(身体性の誇張・拡張)であることとはまた異なる、「ロボット」という概念の複雑なアップグレードであったように思える。

つまり、前述のガンダムが身体性の拡張ならば、自己犠牲ロボットは精神性の拡張と言える。それは陳腐な言い方になるが、機械の体に精神が宿るか、ものに「こころ」を見いだせるか、ということだろう。入れ替え不可能なはずの「精神」と「肉体」は、設定・想像の上では、悠に飛び越え入れ替わっていくことが可能なのだ。ロボットという器に、「こころ」「精神」が宿り、キャラクター化していく。

我々は機械萌え、とは別の次元でロボットに感情移入する。それは、ロボットは人の姿を模した泥人形だとしても、その背後に人間を感じずにはいられないからだ。そしてロボット自体がもつ矛盾、入れ子構造の「死」、擬似的な「死」は、その答えの無さから多くのロボットたちを死に追いやってきた。

そしてふと、ロボットたちの「こころ」はどこに行ったんだろう、とおもう。(そしてそれはもともと無いのかもしれない。)ロボットに乗せた自分たちの思い、こころ、魂はどこに行ったんだろう、とおもう。

ロボット自体が棺桶のような、墓標のようなものなのだとしても、ロボットたちのための、靖国神社があってもいいかもしれない。魂の器のための墓標のようなものが。
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by takuji0808 | 2012-05-27 12:09 | つぶやき