日々の制作と生活を、思いつくままに描く。札幌在住、美術家。西田卓司のブログ。


by takuji0808

「仮面ライダーフォーゼ」<感想>

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仮面ライダーフォーゼ感想

書いていたら、なんか長くなっちゃいました。
ネタバレあり、無理矢理な展開ありの感想垂れ流しです

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① セカイ系舞台のどんづまり

昭和仮面ライダーの敵であるショッカーの目標が「世界征服」であることの説得力の無さを突っ込むのは、無粋というものだろうか?

「怪人はなんで日本にしか現れないのか」という根本的な疑問は、アクションを撮影できるロケ地が決まっているから、という逆説から成り立っている。

そしてその敵に対して、たった一人で(あるいは相棒と、疑似家族と少人数で)世界を守るということの説得力の無さを、舞台や設定という場所を限定することで回復してきている、というのが昭和・平成ライダーの歴史であるともいえる。

例えば『仮面ライダーW』では風都という街を守るために戦うし、今回の『仮面ライダーフォーゼ』は天の川学園を守るために戦う。

だから街中や学校の中の、同じような場所で戦っても不思議ではないし、結果として世界を救うのである。

そして夏や冬に訪れる史上最大の危機では、「世界」を救うために戦ってきた昭和仮面ライダーが大集合するというのも、頷ける話である。

しかし舞台を限定するということは、作品の世界観を狭め、長いスパンのなかで物語が飽和してしまう。そのため物語後半のクライマックスでは世界の危機が訪れるし、『フォーゼ』では宇宙がもうひとつの舞台となっている。

「セカイ系」と呼ばれる「きみとぼく」と「セカイの危機」が同列に語られる世界観、物語の舞台設定は、90年代における一つの特徴である。ここ最近の仮面ライダーの設定は「セカイ系舞台」と言うことが出来るだろう。しかし『フォーゼ』の中ではそのような舞台が機能しているとは言いがたい。

主人公は世界のためではなく、自身が属するコミュニティのために戦うことや、『フォーゼ』の中での「宇宙」感の少なさが、その舞台設定がちぐはぐになっていることを示唆している。(宇宙感の少なさとはつまり『スーパーマン』や『アイアンマン』を見た方が地球脱出のスケール感、「宇宙キター」感があるということだ。)

結論を言うと、セカイ系のように遠景と近景を同時に語るということはもはや不可能であり、平成仮面ライダーという世界でその説得力を獲得するためには、よりゲーム的であったり、アウトローで俯瞰的なキャラクターが必要になると思う。

(そういう意味では『W』や『オーズ』は気にならなかった。)

学園の理事長や校長を倒すという図式は、その時点で大きな矛盾をはらんでいる。だから主人公たちは「父」の世代を殺した後、マイノリティのなかのぬるい関係の中でしか希望を語れない。そして高橋ヒロシ的な、ヤンキー・青春からの卒業さえも描けなかったこと、つまり「一生青春」は幻想であることを作中誰も指摘できなかったことが『フォーゼ』の限界であり、今後の課題だと思う。


② 2.5次元に感情移入できるのか

しかし、このぬるさ、空元気さこそが『フォーゼ』らしさとも言え、それを象徴しているのが主人公、如月弦太郎だろう。

時代錯誤のリーゼントのヤンキースタイルで、友情に熱くて、鈍感というコロコロコミックに出てきそうなキャラクターの、ある種の無責任な元気さがこの作品の骨格であったと言える。

自分は当初、出てくるキャラクターや、ストーリーをどう見ていいのか、わからなかった。前述のような空元気さ、関係性の薄ら寒さが鼻について、感情移入できなかったのだ。しかし、考えてみればこれらの設定はアニメやマンガの中ではありきたりのものであり、そういうものだとして見ればいいのだ、と気づいた。つまり、『フォーゼ』はアニメ作品として見れば良いということだった。

もともと特撮は実写とアニメの中間のような2.5次元性を持っていると思うのだが、ここ最近のCG技術の発達やキャラクター文化、オタク文化の成熟によって、特撮はより2次元に近づいている印象を持つ。(そしてそのカウンターとして美術館で古き良きアニメやマンガ、巨神兵が展示されているのでは、なんて思う。違う側面もあるが。)

古き良き特撮に感情移入できる理由は単なる懐古心だけではなく、手作業感もあるだろう。つまり実物の強さ、人間を感じる部分に感情移入する。

そういう意味でここ最近の特撮でもっとも感情移入するのはアクションであり、スーツアクターの演技だろう。(事実今日本で継続的にアクションの映像を撮影しているのはスーパーヒーローしかいない。) おなじような理由で、演じる役者たちの空身での殺陣や荒削りな演技などが見所となる。

となると、このような現場ではもうデザイナーやクリエイターの作家性よりも、アクションやパフォーマンスの身体性の妙技にこそ、感動する要素が多く含まれているということになる。これは結構面白い現象だとおもう。

仮面を被ったアメコミ的ヒーローの概念をさらに複雑にした、メタヒーロー的な存在としてのスーツアクター、とでもいうのだろうか。これはちょっと自分でも整理がつかないので、改めて考えてみたい。


③ 同性異形のバディ

平成第2期仮面ライダー『W』『オーズ』『フォーゼ』の共通する特徴として同性異形のパートナーの存在が挙げられる。データ人間のフィリップ、グリードのアンク、コアチャイルドの歌星賢吾。(ちなみに歌星賢吾は本郷猛のアナグラム)

主人公にライダーベルトという変身ギア(異能の力)を授け、その後サポートする相棒が、人間ではなく、ヒロインでもなく、妖精やロボットといった人形でもない。それは人間の形を模した特殊な力を持つキャラクターなのである。

(あるいは平成仮面ライダーでは『555』の園田真理や、『電王』のハナなどが数少ない異能の力を授けるヒロインである。そしてこの二人は普通の人間ではない。)

2号ライダーが第2の正義(主人公と異なる信念)を持って、主人公と対立する関係であるのに対して、主人公と彼らは、BLと『相棒』を混ぜたような関係であり、主人公と表裏一体の性質を持ち、対比する関係性となる。

異形のバディは、異形であるが故の苦悩と、人間に対する憧れと、仮面ライダーになれないこと、父親(的な父性)に対するコンプレックス抱えながら、主人公を支え、導いていく。

(『W』のフィリップは仮面ライダーでもあるが、左翔太郎の語るハーフボイルドな『仮面ライダーの正義』を信念として持っているとは言いがたい。)

またサポート役になることから、ストーリーの中では説明役として扱われることが多い。言い換えれば一種のストーリーテラーという立ち位置であり、『仮面ライダー』というゲームの中では唯一外部性を獲得している(ゲームのプレイヤーではなく、ゲームそのものに介入するような)特異なキャラクターとして位置づけることが出来る。

主人公の『仮面ライダー』を振りかざした分かりやすい正義よりも、我々が参考にするべきは正義そのものに懐疑的であり、システムに介入し、ファザコン越えを成そうとして、「その他大勢」のひとりを目指す不完全な同性異形のバディなのではないだろうか。


④ 13人目の仮面ライダー

第2期平成仮面ライダーはこの『フォーゼ』で3作品目となり、平成仮面ライダーシリーズでは13作品目となる。前作、前前作の『W』『オーズ』のどちらもレベルが高かった分だけ、学園もの+宇宙という挑戦的な姿勢は高く評価したい。

しかし前述のような関係性の中でしか正義を語れない弱さや、舞台設定の演出の甘さ、CGを多用することで必ずしも良い結果を得ないことなど、難点も目立つ作品であったとおもう。そしてそれを上回る能天気さ、元気さを『電王』以上に獲得していたかというと、疑問である。

なので、個人的にこうであって欲しい、欲しかったというのは1点。

冬の劇場版やDVDでアニメーションを見てみたい、ということである。
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by takuji0808 | 2012-09-01 16:20 | つぶやき